ボクが住んでいる和歌山の文化財を紹介していきます
どんどん追加していきますね!o(*^▽^*)o~♪



淡島神社(和歌山市)

かつて友ヶ島の淡島(今の神島)にあった祠を現在の加太の岬にうつしたものです。ご祭神は医薬
の神様で、特に婦人病や安産・子授け祈願で名高く女性のための神様です。毎年2月8日の針供
養、3月3日に行われる雛流しの神事が有名です。



淡島神社(和歌山市)

境内にはお雛様など多くの人形が並びます。宝物殿には紀州徳川家奉納の雛人形・海上がり茶碗
などを展示・保管しています。人形の供養所として知られ、全国から色々な人形が集まってきます。
人形も同じ種類が神社の周りを埋め尽くす程並んでいると異様で気味が悪く映ります。




長保寺・国宝の大門(下津町)    
 
紀州徳川家歴代藩主の眠る寺。国宝の大門、本堂、多宝塔のほか、鎮守堂(重要文化財)、紀州
徳川家廟所(史跡)と歴史的価値が高い。境内には桜をはじめ、アジサイや冬椿が咲く、花の寺
でも有名です




道成寺・仁王門(川辺町)  
 
和歌山県下に現存する最古の寺で、701年(大宝元)に建立されました。62段の石段を上り、
朱塗りの仁王門(重要文化財)をくぐると、正面に本堂(重要文化財)、右手に安珍清姫伝説
の鐘楼跡があります。



道成寺・本堂(川辺町)  
 

 宝仏殿には平安前期作の木造千手観音立像(国宝)や脇侍の日光・月光菩薩像(国宝)をはじめ、
数々の文化財が安置されています。また、縁起堂では、住職が寺の縁起と安珍清姫伝説の絵とき
説法(約20分、随時)を、ユーモアを交えながら行ってくれます。




紀伊風土記の丘・移築民家(和歌山市)

岩橋千塚古墳群を中心とした博物館施設です。古墳や遺跡からの出土品や民具等を展示する
資料館、江戸時代の暮らしがわかる4軒の移築民家、万葉集に歌われた植物を集めた万葉植
物園等があります。写真はそのうちの一軒です。



紀伊風土記の丘・竪穴住居(和歌山市)

岩橋千塚古墳群に接した音浦遺跡でみつかった古墳時代(5世紀末)の竪穴住居跡をもとに復元して
います。葦(よし)と茅(かや)で葺かれた屋根は、高さ約4.6mで、東西に煙出しを備えた入母屋造りと
なっています。入口は西側で、現在の住宅と違い設備は乏しく、カマドと貯蔵穴が見られるのみです。




熊野速玉大社(新宮市)

本宮・那智とともに熊野三山のひとつに数えられ、かつては熊野権現の名で一大宗教王国を構成し
ていました。神倉山に祀られていた神を現在の社地に移し、それ以来、神倉山の元宮に対し、ここを
新宮と呼んだといいます。同敷地内にある神宝館には、1200点にものぼる国宝が保管展示されて
います。




熊野本宮大社(本宮町)  

古来上下の信仰の篤い熊野三山の一つで、上、中、下、の三社よりなるので熊野三所権現といわれ、
十二殿に十四柱の祭神が鎮座するので熊野十二社権現とも称えられます。本宮の主祭神は家津御子
(けつみこ)で、証誠殿に祀られています。熊野川の中州が旧社地で、明治22年の大水害に遭い、現在
地に移りました。




徐福公園(新宮市)

新宮駅から東へ100m程歩いたところにあり、中国風の楼門がひと際鮮やかです。境内は、クスノキ
の巨木と天台烏薬に囲まれ、徐福の墓や、徐福像、不老の池、徐福が亡くなった時殉死したと伝え
られている七人の重臣の墓が建立されています。



紀三井寺(和歌山市)

西国三十三国所第2番札所の観音霊場です。和歌山市の南部、熊野街道沿の名草山の中腹に
位置し、境内から望む「和歌の浦」は絶景です。また、近畿地方、本州に春の到来を告げる早咲き
桜の名所として知らせています。紀三井寺という名称は、山内に三つの井戸がある寺「三井寺」に
紀の国の頭字「紀」を冠して呼び慣わされてきた名前です。
2005年のサクラにお花見のときの写真があるよ!




紀州東照宮(和歌山市)

徳川頼宣は1619年、紀州藩の領主として和歌山に領地換えとなり、その翌年から和歌浦において
紀州東照宮の造営に着手し、わずか一年後の1621年、壮大な境内を完成させました。華麗な彩色
と彫刻や絵画を施した社殿や楼門、透塀(いずれも国重要文化財)などの貴重な建造物が良好に
保存され、本殿の彫刻は江戸時代初期の名匠・左甚五郎の作、板絵は狩野探幽の作と伝えられ、
拝殿には万葉歌の故地にふさわしく三十六歌仙の絵画が掲げられています。




粉河寺(粉河町)

粉河寺は光仁天皇の宝亀元年(770)に鎌垣荘の大伴孔子古(おおとものくしこ)によって創建されま
した。平安時代に入り、霊場巡拝ブームにのって、貴族等の間で「聖の住所」として信仰され、一躍
名声を確定しました。武士の時代でも観音霊験への信仰厚く衆庶の寺として隆盛を極め、西国三十
三所第三番の札所です。



興国寺(由良町) 

1258年(正嘉2)に源実朝を弔うために建立された寺で、法燈国師(覚心)が開基しました。覚心
は、醤油の誕生のきっかけとなった径山寺(きんざんじ)味噌の製法を宋から持ち帰り、この地に
伝えた人物です。また、虚無僧を宋から伴って帰国し、全国に普化尺八を広めたことでも知られ
ます。



熊野那智大社(那智勝浦町)

本宮、速玉の両大社と並ぶ熊野三山の一つ。467段におよぶ石段の上に建つ拝殿、その神域には
日本サッカー協会のロゴにも用いられている“八咫烏(やたからす)”の烏石や、樹齢約850年の大楠
があります。また、諸願成就の神としても知られています。




青岸渡寺(那智勝浦町)

如意輪観世音を祀る本堂は、天正18年に豊臣秀吉が再建したもので、国の重要文化財に指定
されています。那智の滝との調和が美しい三重の塔も必見です。西国33カ所観音巡りの第一番
礼所でもります。




根来寺・大門(岩出町)    
 
根来寺は大治5年(1130年)、興教大師(覚鑁上人)が高野山に伝法院を開いたのに始まります。
後に覚鑁は高野山と対立し、保延6年(1140年)に根来の豊福寺に居を移しました。大門は根来一
山の総門で1850年に再建されたもので、左右に仁王像を配します。



根来寺・国宝大塔(岩出町)    

この塔は、真言密教の教義を形の上で示したものです。明応5年(1496年)に建立され、我国最大
の木造多宝塔で、明治32年に国宝に指定されています。また秀吉の紀州征伐の焼打ちから残っ
たものですが、その頃の戦乱の弾痕がはっきりとみられます。




春林軒(那賀町)    

文化元年(1804年)10月13日、世界で初めて全身麻酔「通仙散」による乳癌(がん)の摘出手術に成功した
華岡青洲の自宅兼病院兼医塾です。フラワーヒルミュージアムに隣接し、花も楽しめます。

華岡青洲のところに写真がたくさんあります。



トルコ記念館(串本町)

樫野埼トルコ軍艦遭難慰霊碑の近くに位置し、明治23年遭難したエルトゥールル号の 模型や遺品、
写真等を展示しています。



和歌山城(和歌山市)

和歌山城は、戦国時代末期の1585年3月、紀州を平定した豊臣秀吉が、藤堂高虎らに命じて築城
したと伝えられています。その後、1600年の関ヶ原合戦で勝利した徳川家康は、浅野幸長を和歌
山城主として甲斐国(山梨県)から入城させました。幸長は、今に残る和歌山城の基を作り上げました。
1619年、幸長に変わって徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城へ入城。以来幕末の
第14代藩主茂承までのおよそ250年にわたって徳川家が紀州藩主となりました。
2005年のサクラにお花見の写真がたくさんあります!



和歌山城・紅葉渓庭園

紅葉渓庭園は、徳川頼宣が西の丸御殿に築いたもの。浅野公時代に築かれた内堀の一部と、
虎伏山の起伏をたくみに利用した、どこか大らかな感じのする庭園です。堀の中に浮かぶ「鳶魚閣
(えんぎょかく)」は、雨の日に出かけるとまた格別で、けむるような水面に釣殿がほのかに浮かび
上がった時、こころが震えます。池は山すそから湧き出る泉を利用して作られ、池の中央には舟の
形をした「御舟石」があります。無数の鯉がのどかに泳いでいて、目を楽しませてくれます。

2004年の紅葉に写真がたくさん置いてるよ


和歌浦天満宮(和歌山市)

和歌浦湾に臨む小高い天神山の中腹に鎮座しています。延喜元年(901)菅原道真が大宰府に流
される途中、海上の風波を避けるため和歌浦に立ち寄り、その風光をめでました。その後、康保年間
(964〜968)に道真に同行した橘直幹が太宰府からの帰途、和歌浦に船を停めて菅公を追慕し、
この地に神殿を建てたのが開創とされています。




慈尊院(九度山町)

弘仁七年(816)、弘法大師が高野山開創のとき、要所に当るこの地に、表玄関として伽藍を草創し、
一山の庶務を司る政所を置きました。承和元年(834)、大師の御母公がわが子を慕ってこの地を訪
れ翌年没したため、母公廟が造られ、以来女人結縁の寺として「女人高野」と称され親しまれてきまし
た。弥勒堂前には、安産、子授け、育児を祈願して布製の乳型が奉納されています。
九度山に写真がたくさんあるよ


高野山

高野山は1200年に及ぶ歴史をもつ、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地です。標高900mの
山上に、金剛峯寺を含め117カ寺が集い、一大宗教都市を発展させてきました。壇上伽藍と奥の院を
中核にした霊場には、今日もなお大師信仰を求める多くの人々が参拝に訪れます。

高野山のサクラ(2005年)高野山のシャクナゲ(2005年)高野山の紅葉(2004年)もみてね!





大門(高野山)

大門は高野山一山の総門で、高さ25.8メートル、法橋運長作の金剛力士像を左右に安置した重層の
楼門です。現在のものは、宝永2年(1705)に再建され、昭和56年から解体修理が行われ、昭和61
年10月落慶。深緑の杉・檜の木立に、朱色の楼門が威風堂々と聳え立つ姿は、山中随一の壮観とい
えます。




壇上伽藍・金堂(高野山)

空海(弘法大師)が中国の都、長安に留学し、帰国後、高野山の地に真言宗を開きましたが、
その第一段階は根本道場としての伽藍の建設でした。高野山の本堂で主な法会が営まれま
す。本尊は高村光雲作です。



壇上伽藍・根本大塔(高野山)

高さ約50メートル。赤い色がひときわ目立つ根本大塔で、本尊は胎蔵大日如来です。
中はそのまま仏の世界といった感じです。




金剛峰寺(高野山)

弘法大師が高野山を開創した当時、高野山全城を金剛峰寺と呼びました。現在の金剛峰寺は、高野山
第ニ世座主真然大徳(伝灯国師)の廟所で、文禄二年(1593)豊臣秀吉が亡母の菩提を供養するため、
木食応其上人に命じて建立された青巌寺・興山寺を明治二年に合併し、全国の末寺代表する総本山と
なりました。
 

金剛峰寺・本堂(高野山)




女人堂(高野山)

高野山はかつて女人禁制のため、女性は山に入ることを許されず、高野七口には女人堂が建
てられていました。そのうち一つが残っています。




刈萱堂(高野山)

刈萱道心と石童丸の伝説ゆかりのお堂です。「石童丸物語」は高野聖によって全国津々浦々に
語られ、堂内にはこの物語を絵にした額がいくつも掛けられています。




金剛三昧院(高野山)

源頼朝公の妻二禅尼北条政子が、頼朝公の菩提を弔うために、建暦元年(1211)に建ました。境内
には鎌倉中期より約800年間自然の風水雪と堪えじっと建っている国宝・多宝塔を初め、国の重要
文化財に指定されている経蔵、庫裡、鎮守社等あります
。また天然記念物指定の大石楠花があり
5月上旬に美しいピンクの花を咲かせてくれます。

高野山のシャクナゲ(2005年)もみてね〜♪



金剛三昧院・多宝塔(高野山)



奥の院(高野山)

壇上伽藍と並び、高野山で最重要とされる聖地です。推定樹齢800年の杉木立が約30万基ともい
われる墓石群が約2kmの参道の両側に並んでいます。終点の燈篭堂は仏教寺院としては珍しく拝
殿の形をとり、その最奥部に弘法大師廟が祭られています。燈篭堂正面右奥には石田三成が母の
ために建てた経蔵(国重要文化財)があります。


奥の院(高野山)


奥の院(高野山)


奥の院(高野山)


奥の院(高野山)


奥の院(高野山)


奥の院(高野山)